ざぁっ、と音を立てて、ベランダのカーテンを開ける。
良い天気だ。きっと、良い天気、だと思う。今日はこんなにぽかぽかとして、肌の表面にじわじわと熱が伝ってきている。ちょっと遠くで小さな子供たちが楽しそうに騒ぐ声も聞こえる。雨音なんて全然聞こえないし、湿度も高くない。
窓を開ける。土の匂い。アスファルトのニオイ。排気ガスの臭い。それに混じって、ちょっとだけカレーの匂いがする。花の匂いがする。雨のニオイはしない。晴れのニオイがする。
良い天気だ。今日は、良い天気なんだ。
私はててっと小走りになって、ベッドへと戻る。自分の部屋だもん、何が何処にあるかくらいは解る。だから、ちょっと小走り。街中じゃ怖くて出来ないけれど、部屋の中だから良いんだ。
ベッドに座って、彼の身体に触れようと手を伸ばす。
「んぅぅ……んぅ?」
ありゃ、ちょっと変な場所に触っちゃった。座った位置がちょっとずれていたのかな。でも良いよね。うん、元気そうだし、良いことだ。
「ねぇ、朝だよ。今日もいっぱい教えてよ」
彼の呼吸が、段々と力強くなっていく。もぞもぞと身体を動かして、辛そうに呻く。
起きた。けれど、まだ眠り足りないみたいだ。彼の手を捜して、親指を握る。そのまま彼の親指の感触で遊ぶ。私と違って皮が厚く、表面がザラザラで固い。奥にあるお肉も張りがあって、骨も太く頑丈そう。私のと全然違う。今日もまた、彼の新しいことを発見。
「……何してんの?」
寝ぼけた声で、彼が尋ねてきた。君が構ってくれないから、君の身体で遊んでるんだよー。ほら、親指と人差し指だけでも、君の身体は全然違う。長さも違う、細さも違う、固さも違うし、爪の大きさも。骨の感触も違うよ。
「んー、君の指も、一本一本違う感触がするよ」
む、そうだったのか。自分で自分の指に触れても、いまいちよくわからない。指同士が押し合って、どっちがどっちの感触なんだか、じんわりと溶け合って、まざりあって、解らなくなる。
いやいや、今はそれよりも大事なことがある。とてもとても大事なことだ。
「お腹すいちゃった。一緒に食べよ?」
もともと、一人じゃ食べられないんだけれどね。用意も出来ないし。
彼が大きなあくびを一つして、髪の毛をがしがしとかきむしった。のそりと立ち上がる彼の親指を私は離さないようにきゅっと掴んで、彼の後ろについていく。
小股で五歩進んで扉を開けて、七歩進んでまた扉。いつもの洗面所の位置だ。そうだね、ご飯の前には顔を洗って、歯を磨かなきゃね。
「はい、歯ブラシ」
彼が歯ブラシを取ってくれた。ちゃんと毛先を水でぬらした後に、でんたーの歯磨き粉を乗せてくれている。たったそれだけでも私は嬉しくて楽しくて、幸せで体が浮かんじゃいそうになる。
歯を磨いて顔を洗って、彼に落としきれていない泡が無いか確認してもらう。そしてさっぱりしたところで、私のお腹が小さく鳴いた。そういえば、昨日の夜はいつもより食べる量が少なかった。せっかく作ってくれたビーフシチュー、私が零しちゃったから。ごめんね。
四歩進んで右に曲がる。三歩進めばキッチン。私はキッチンの入り口で、彼の料理の音と匂いを感じる。彼はソファでテレビを聞いていたら、て言うけれど、私にとってはこっちの方が楽しい。
トントン包丁がまな板の上で鳴る。ザクザクと瑞々しい音。これはキャベツだね。あと今、もやしを茹でてるでしょ。もやしの匂いがするよ。あと、ピーラーを使ってる音。滑らかな音だけど、間隔は短いから人参かな。少しだけ甘い匂いがする。
「サラダのドレッシングは何にするの?」
「和風柚子醤油でいこうと思ってた」
「いいねいいね、私好きだよ、柚子」
「あと、ご飯の後にクッキーを食べよう。昨日ゆり叔母さんから貰ったんだ」
おぉ、ゆり叔母さんは好きだ。いつも私たちにおいしいお菓子をくれるから、頭が上がらない。前は夕張メロンゼリーを貰ったし、その前は白い恋人も送ってきてくれた。
ゆり叔母さんの化粧水の匂いと、シャンプーの匂いが好きで、以前名前を教えてもらって、彼に買ってきてもらったのだけれど、化粧水が私よりも10以上年上の女性用だって聞いて、使うのに悩んだことを思い出した。
……しかししかし、今はクッキーのことがちょっと気になりますよ?
「ねぇ、クッキーってどんなやつ?」
「すごいよ、これくらいの缶に入ってるクッキーで、中に色んな味と匂いのやつが入ってる」
彼が私の両腕をもって、くるりと大きな輪を作るように動かす。おお、ちょっと大きいじゃないですか。
それにそれに、色んな味と匂いのやつが入っているというのは、聞き捨てなりませんよ。
「色んな味に、色んな匂い?」
「そう。チョコレートに、オレンジとイチゴ。あと抹茶とプレーン。あと、アルコール染みたレーズンが一粒乗ってるやつ」
チョコレートの甘い香りに、オレンジとイチゴのふんわりと爽やかな酸味ある匂い。抹茶の優しい匂いに、ほのかに気持ちよくなるレーズンの匂い。そして、それら全てを包み込んだ、プレーンのくすぐったい香りが、私の鼻の中にふわりと漂ってきた気がした。
それは、きっと心躍る香りなのだろう。まるで絡み合うように、ふわふわとダンスをするみたいにくるくると溶け合って、私の鼻の中に滑り込むクッキーの匂いを想像する。
頭の中に浮かぶのはそれらを食べたときの幸せに包まれるような味のこと。
「それは、きっとカラフルなんだろうね」
「そうだね、カラフルな匂いだと思うよ」
私の世界には、色が無い。彼は最初、私の視界には何も映らないということを知ったとき、闇に包まれたような? と、聞いてきた。
けれど、私は闇というものを知らないし、光というものもしらない。それらは、目で見えるものだから。皆が見えなくなることが闇に包まれると表現するけれど、その闇だって、私にとっては見えているものとしか思えない。
だから、たぶん私にとっては、何も感じなくなることが、闇なんだろうな。匂いもなくて、味も無くて、音も無くて、感触もなくなって、初めて闇になる。
「ねね、早くごはんにして、クッキー食べようよ」
「いいよ。ほら、サラダもできたし、トーストもすぐ焼けると思うよ」
私はなんて幸福なのだろう。誰もが視界を奪われるだけで闇に包まれてしまうというのに、私は耳と鼻と、肌と舌をなくして、初めて闇に包まれる。ふふん、得した気分です。
鼻をくすぐる、クッキーのカラフルな香りを想像しながら、彼のシャツの裾をキュッと握る。
彼は、私の手を優しく握ってくれる。それだけで、心が弾む。
「じゃ、たべようか」
「うん、いただきます」
幸せ。
2011年02月14日
2010年12月19日
ほうこく
生きてます。規制があるので2ch書き込めません。そのうちまたなんかやりたいですね。
2010年02月21日
BITTER CHOCOLATE STRIKER
良太は焦った。なんと今日は恐怖のバレンタインデーではないか。この日がどれだけ自分を苦しめるのかを十二分に理解していた良太は、頭を抱えて床に崩れ落ちた。時間が流れるのが早く感じる。先日はクリスマスで、一人彼女もいない自分は部屋にこもってカップラーメンを食べながらテレビを見て、泣きながらすごしていた。そんな悲しい日をやっとの思いですごしたと思ったら、もうバレンタインデーではないか。
甘く、とろけるような恋心を、チョコレートで伝えてみませんか? なんて、反吐が出る。ある人種によればバレンタインデーは、チョコレートで小腹を満たせるお得な日かもしれない。そしてまたある種類の人間にとっては、期待と緊張入り混じる、切ない日かもしれない。しかし良太にとってこの日は苦痛と拷問以外の何モノでもなかった。
風呂上りに「あれ、自分もしかしてイケメンじゃね?」と、あの一瞬だけ自分がかっこよく見える謎の現象で自分をごまかして生きていても、この日やクリスマスばかりは自分をごまかせない。風呂上りに見たイケメンフェイスの自分と、街のショーウィンドウで不意に見た疲れ顔の自分とのギャップに死にたくなったり、突然の思いつきで録音した自分の声があまりにも気持ち悪くて絶望したりと、そういう大層な自信の喪失と絶望でつぶれるような、そういう日なのだ。そういう思いを全身で受け止める日なのだ。
いくら服装やアクセサリ、髪型にきをつかってお金をかけても、ナチュラルイケメンには全力で勝てないことを悟った今、良太に出来る現実逃避は何も無かった。
幸い今日は日曜日。外出はしなくて良い。だから、今日も部屋にこもってダメージを最小限に抑えるんだ。街中で手を繋ぐカップルなんて見るな。商店街の赤を基調とした飾り付けや、ハートの形なんて見なくて良いんだ。そうすれば、今年もきっと生きていける。
布団に潜り込み、良太はうずくまった。真っ暗な闇に溶け込んで消えてしまえば、自分がいなくなったと錯覚できるはずだと、勘違いをして。呼吸を小さく、鼻を啜り、布団を握り締めた。こうして、あと24時間ずっと眠れば良いのだ。簡単なことじゃないか。
と、そこで良太には全く予期しない出来事が起こった。布団に包まり、目を瞑り、眠りの世界へ落ちていこうとしたところで、機械的なドアフォンの音が部屋の中に響いた。今日は友人も呼んでいない。家賃もちゃんと払っているから、大家さんが怒鳴りつけに来たわけでもない。では、誰が?
のそりと起き上がり、良太は玄関のドアに付いた覗き窓から、ゆっくりと扉の向こう側を覗き込んだ。そこには、頬を赤らめた自分と同じくらいか、それより少し年上程度の女性が立っていた。黒く長い髪の毛が綺麗で、赤らんだ頬と、まん丸で少しだけ潤んだ瞳が可愛らしかった。
なぜ、何故突然こんなにも自分の好みの女性が家にやってきたのだろうか。それも、頬を染めて、瞳を輝かせて。
……もしや、と、思った。今まで考えたことが無かった、一抹の期待。小さな希望が、微かな光が見えた気がした。良太は叫んだ。「ちょっと、待っててください!!」と大きな声で叫んだ。
直ぐに洗面所へ走って行き、頭から温水を被った。髪を若干整え、風呂上りの自分を急遽作り上げた。服もちょっとだけラフだけれど、気を使わない程度のものを。そして走った。再び、玄関へ走った。この冬、濡れ髪で玄関の扉を開けるなんて自殺行為だけれど、良太はそんなこと構わずに玄関の扉を、満面の笑みで開けた。
「あ、小包です。ここ、はんこください」
女性は宅配業者だった。赤く染まった頬は、冬の空気が寒いから。そりゃ、寒さに瞳も潤む。
良太は叫んだ。思い切り叫んで、女性の頬をグーで殴った。最低である。小さな勘違いに大きな期待を持って勝手に自殺行為に走った挙げ句、女性を殴った。女性に馬乗りになり、わけのわからないことを叫び、バレンタインなど糞食らえと女性に言葉を浴びせた。
10分後には、良太はパトカーの中に乗っていた。何故こんなことになったのかは判らない。ただ、今日がバレンタインデーだったから。それだけだ。警察署について、昼食として出前を取ってくれたカツ丼。食べ終わって、料金を請求されて、良太はドラマとかでよく出てくるカツ丼がはじめて、料金は自分持ちであることを知る。
因みに、届いた小包の中身は母親からのバレンタインチョコレート。良太は、警察署の中で、恥ずかしげも無く、大声で泣いた。
甘く、とろけるような恋心を、チョコレートで伝えてみませんか? なんて、反吐が出る。ある人種によればバレンタインデーは、チョコレートで小腹を満たせるお得な日かもしれない。そしてまたある種類の人間にとっては、期待と緊張入り混じる、切ない日かもしれない。しかし良太にとってこの日は苦痛と拷問以外の何モノでもなかった。
風呂上りに「あれ、自分もしかしてイケメンじゃね?」と、あの一瞬だけ自分がかっこよく見える謎の現象で自分をごまかして生きていても、この日やクリスマスばかりは自分をごまかせない。風呂上りに見たイケメンフェイスの自分と、街のショーウィンドウで不意に見た疲れ顔の自分とのギャップに死にたくなったり、突然の思いつきで録音した自分の声があまりにも気持ち悪くて絶望したりと、そういう大層な自信の喪失と絶望でつぶれるような、そういう日なのだ。そういう思いを全身で受け止める日なのだ。
いくら服装やアクセサリ、髪型にきをつかってお金をかけても、ナチュラルイケメンには全力で勝てないことを悟った今、良太に出来る現実逃避は何も無かった。
幸い今日は日曜日。外出はしなくて良い。だから、今日も部屋にこもってダメージを最小限に抑えるんだ。街中で手を繋ぐカップルなんて見るな。商店街の赤を基調とした飾り付けや、ハートの形なんて見なくて良いんだ。そうすれば、今年もきっと生きていける。
布団に潜り込み、良太はうずくまった。真っ暗な闇に溶け込んで消えてしまえば、自分がいなくなったと錯覚できるはずだと、勘違いをして。呼吸を小さく、鼻を啜り、布団を握り締めた。こうして、あと24時間ずっと眠れば良いのだ。簡単なことじゃないか。
と、そこで良太には全く予期しない出来事が起こった。布団に包まり、目を瞑り、眠りの世界へ落ちていこうとしたところで、機械的なドアフォンの音が部屋の中に響いた。今日は友人も呼んでいない。家賃もちゃんと払っているから、大家さんが怒鳴りつけに来たわけでもない。では、誰が?
のそりと起き上がり、良太は玄関のドアに付いた覗き窓から、ゆっくりと扉の向こう側を覗き込んだ。そこには、頬を赤らめた自分と同じくらいか、それより少し年上程度の女性が立っていた。黒く長い髪の毛が綺麗で、赤らんだ頬と、まん丸で少しだけ潤んだ瞳が可愛らしかった。
なぜ、何故突然こんなにも自分の好みの女性が家にやってきたのだろうか。それも、頬を染めて、瞳を輝かせて。
……もしや、と、思った。今まで考えたことが無かった、一抹の期待。小さな希望が、微かな光が見えた気がした。良太は叫んだ。「ちょっと、待っててください!!」と大きな声で叫んだ。
直ぐに洗面所へ走って行き、頭から温水を被った。髪を若干整え、風呂上りの自分を急遽作り上げた。服もちょっとだけラフだけれど、気を使わない程度のものを。そして走った。再び、玄関へ走った。この冬、濡れ髪で玄関の扉を開けるなんて自殺行為だけれど、良太はそんなこと構わずに玄関の扉を、満面の笑みで開けた。
「あ、小包です。ここ、はんこください」
女性は宅配業者だった。赤く染まった頬は、冬の空気が寒いから。そりゃ、寒さに瞳も潤む。
良太は叫んだ。思い切り叫んで、女性の頬をグーで殴った。最低である。小さな勘違いに大きな期待を持って勝手に自殺行為に走った挙げ句、女性を殴った。女性に馬乗りになり、わけのわからないことを叫び、バレンタインなど糞食らえと女性に言葉を浴びせた。
10分後には、良太はパトカーの中に乗っていた。何故こんなことになったのかは判らない。ただ、今日がバレンタインデーだったから。それだけだ。警察署について、昼食として出前を取ってくれたカツ丼。食べ終わって、料金を請求されて、良太はドラマとかでよく出てくるカツ丼がはじめて、料金は自分持ちであることを知る。
因みに、届いた小包の中身は母親からのバレンタインチョコレート。良太は、警察署の中で、恥ずかしげも無く、大声で泣いた。
2010年01月18日
2009年12月26日
とあるローゼンの文字遊び
http://to-a.ru/
元ネタはとある魔術の禁書目録らしいです。
元ネタの作品を見たことないので、雰囲気はわかりません。ジェネレーターの文字組みが気に入らなかったので、自分で文字組みしてみました。








元ネタはとある魔術の禁書目録らしいです。
元ネタの作品を見たことないので、雰囲気はわかりません。ジェネレーターの文字組みが気に入らなかったので、自分で文字組みしてみました。








2009年12月25日
不沈艦CANDY
君が、どこか遠い世界へ行きたいと呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。虚ろな瞳で、頬杖を付き、涙を流したのを見逃さなかった。
彼女のために、何かしたい。君の力になりたいって、僕は本気でそう思っていた。
思うだけなら簡単だ。脳みそを動かせば良い。それは決して現実じゃなくて、嘘やまやかしでしかない。だから、僕は行動した。君をどこか遠い世界へ連れて行けるように、君のうつろな瞳に光を宿したいその一心で、僕はこの体を動かした。
工事現場で働き、安い日当を貯め込み、夜はコンビニでアルバイトをし、少ない小遣いを貯蓄。自分の漫画やゲームを全て売り払った。
高校一年の頃から始めた貯金は欠かすことなく、僕は卒業し直ぐに就職した。水産加工会社の事務として働き、その給料も殆ど貯金して暮らしていた。
君は進学も就職もせず、毎日をただ人形のようにすごしているらしいと言う話を聞いた。時の流れに身を任せ、全身の力を抜き、死者とも似た君の姿は、きっと僕の心すら蝕んでいくだろう。
よく、欲しいもののために我慢してお金を貯めると言うけれど、本当に欲しいもののためにお金を貯めることは、全然我慢なんかじゃない。ごく自然な、当たり前の行動だ。我慢するくらいなら、それは本当に欲しいものじゃない。
僕はそう、当たり前に、ただお金を貯めた。君のために、君の表情を笑顔に塗り替えるためだけに。
働いて、働いて、馬車馬みたいにただ真っ直ぐに突き進んできた。食費を削り、ガスを使わず、電気を使わず、水を使わずに過ごす。実家暮らしをしていると、色々と出費が少なくて良い。月々両親に一定の金額を払えば、後は毎日食べていける。
就職してからも僕は毎日貯金をやめなかった。副業として始めたPCのデータ打ち込みでの収入に、道端で見つけた小銭だって拾い、自動販売機の釣銭口に手を入れる事だってやめなかった。
何日も、何ヶ月もそうして、ついに僕が貯金を始めてから六年がたった今日、僕は一隻の漁船を買うことが出来た。小さな漁船だけれど、正真正銘、彼女を連れ出すためだけに買った、彼女のための船だ。
漁船が届いた日は、クリスマスイブだ。近くの港に一隻、真っ白な船を浮かべ、僕はこの船に名前をつけることにした。
彼女のための船。彼女を連れ出す船。女の子らしい名前が良いと、洋菓子の名前をいくつか考えた。○○丸とかそういう男臭い名前は却下だ。可愛らしく、希望に溢れている名前が良い。
一時間ほど悩んだ末、僕はその船にCANDYと名前をつけることにした。更に、その船を不沈艦と称し、彼女を照らす明るい未来を感じさせるように。
ありったけのピンクのペンキを買って、その塗料全てをCANDYにぶちまけた。僕の想像する、CANDYの名前らしい色を考えたら、自然とピンク色になった。船体のほとんどが疎らなピンク色になり、CANDYは幾分男臭さを消す。
高校卒業してからもずっと部屋にこもりきりだった彼女の家に、足を向けた。玄関のインターホンを鳴らし、出てきたのは彼女の母親。
「あの、彼女を、彼女に会いたいんです」
それから十分間玄関口で待たされ、出てきたのは一切の希望を捨てて来てしまったかのような、中身の無い抜け殻の彼女の姿。何処を見ているのか解らない瞳と、かさついた唇は半開きになり、髪は伸びて顔のほとんどを覆っていた。
「行こう、外へ」
彼女の首に僕のマフラーを巻き、僕のコートを着せる。僕はパーカーとジーンズなんて、冬の景色には似合わない格好になってしまったけれど、そんなことはもうどうでも良かった。彼女の手をとり、車に乗せる。港へと走らせる速度は、法定速度を35キロ超えていた。途中、庭をイルミネーションで飾った家を通り過ぎた。クリスマスプレゼント。彼女は、船のプレゼントを喜んでくれるだろうか。
港にたどり着き、僕らは船に乗り込む。エンジンを動かし、スクリューを回転させ、耳障りな音を吐き散らしながら船はゆっくりと動き出す。徐々に遠くなる港と、冷えていく体を余所に、彼女の瞳は少しずつ涙に濡れていく。
何がそんなに悲しいのだろう。何がそんなに君をおびえさせるのだろう。君の望みはもう直ぐに叶うというのに。僕が、叶えてあげようと今こうして動いていると言うのに。
沖に出た。陸地が大分とはなれた場所で、僕は船を止めた。寒さに震える体に鞭を打って、彼女の元へと歩いていく。
「どうしたの?」
彼女の瞳は涙で揺れ、歯はカタカタと音を刻んでいる。べったりと脂に塗れた髪の毛が芯まで冷えて、すこし固くなっている。
彼女は小さく口を開き、たった一言漏らした。
「死にたい……」
何故、何故なのだ。君の望みは今まさに叶おうとしているのに。どこか遠い世界へ、今君は僕と旅立とうとしていると言うのに、何故君の瞳にある闇は消え去ってくれないのだろうか。
僕が彼女の肩を抱こうとすると、彼女は強い力でそれを振り払った。よろけた僕を突き飛ばし、彼女は思い切り駆け出した。極寒の海へ、真冬の真っ黒な海に、身を投げた。
一度大きく叫び、悶えたかと思えば、二秒ほどで彼女の動きはなくなり、そのまま海の底に沈んで行ってしまった。
僕はその様子を、黙ってみていることしか出来なかった。疑問と、悔しさと、怒りに身を固められてしまい、涙が溢れる。
僕の船は、君のためのものだったのに。君の言う遠い世界とは、この世界のことじゃなくて、誰も手の届かない、場所のことだったなんて。僕は、そんな場所に君を連れて行くためにこの船を買ったんじゃない。
暫く、寒さのことも忘れるほどに僕は泣いていた。手から血が噴出すことも構わず、何度も何度も床を拳で叩いた。
雪が降り、風が強くなってきたところで、僕は自分の行った行為の愚かさに気づいた。空を見上げれば灰色の厚い雲が空を覆っている。まるでそれが、彼女の瞳のようだと感じた。
この船は、彼女のための船だ。不沈艦なんて名前をつけたけれど、この船はそもそも浮かんじゃいなかった。彼女はすでに沈むところまで沈んでいたのだ。沈んだ彼女を乗せた船が、浮かんでいると言えるのか。海底で膝を抱え、瞳を濁らせた彼女を乗せた船は、同じく海底を這うように移動するだけの船だった。
浮かんでいたのは、僕一人なのか。手を差し伸べたつもりでも、その手は海底にまでは届いていなかったのか。
冷たい、海の水に指先をつけてみる。傷みにも似た感触が、差すように指先を襲う。彼女はこの冷たい海の底に、眠ってしまった。
どこか遠い世界。見知らぬ国や、見知らぬ集落。そんなお気楽に考えていた自分を心底呪い、僕は救命胴衣を身に纏った。
この船はここに残していく。この船は僕が港に戻るための船じゃない。彼女を、彼女をどこか遠い世界へと連れて行く船だ。もうこの船は役割を失ってしまったけれど、彼女がここに眠る以上、ここにおいておくことが最善だと思った。
港が、小さく見える。僕は心臓を強く叩いてから、大きく深呼吸した。
帰ろう。彼女が望んだことだ。彼女は一人で遠い世界へ行った。僕は後を追えない。でも、船は残さなきゃならない。
歯を食いしばり、僕は、その身を冷たい海の中へと投げ入れた。
不沈艦CANDY。彼女のための船。彼女を運ぶ、唯一の船。その船から、僕は自分をはじき出した。
彼女のために、何かしたい。君の力になりたいって、僕は本気でそう思っていた。
思うだけなら簡単だ。脳みそを動かせば良い。それは決して現実じゃなくて、嘘やまやかしでしかない。だから、僕は行動した。君をどこか遠い世界へ連れて行けるように、君のうつろな瞳に光を宿したいその一心で、僕はこの体を動かした。
工事現場で働き、安い日当を貯め込み、夜はコンビニでアルバイトをし、少ない小遣いを貯蓄。自分の漫画やゲームを全て売り払った。
高校一年の頃から始めた貯金は欠かすことなく、僕は卒業し直ぐに就職した。水産加工会社の事務として働き、その給料も殆ど貯金して暮らしていた。
君は進学も就職もせず、毎日をただ人形のようにすごしているらしいと言う話を聞いた。時の流れに身を任せ、全身の力を抜き、死者とも似た君の姿は、きっと僕の心すら蝕んでいくだろう。
よく、欲しいもののために我慢してお金を貯めると言うけれど、本当に欲しいもののためにお金を貯めることは、全然我慢なんかじゃない。ごく自然な、当たり前の行動だ。我慢するくらいなら、それは本当に欲しいものじゃない。
僕はそう、当たり前に、ただお金を貯めた。君のために、君の表情を笑顔に塗り替えるためだけに。
働いて、働いて、馬車馬みたいにただ真っ直ぐに突き進んできた。食費を削り、ガスを使わず、電気を使わず、水を使わずに過ごす。実家暮らしをしていると、色々と出費が少なくて良い。月々両親に一定の金額を払えば、後は毎日食べていける。
就職してからも僕は毎日貯金をやめなかった。副業として始めたPCのデータ打ち込みでの収入に、道端で見つけた小銭だって拾い、自動販売機の釣銭口に手を入れる事だってやめなかった。
何日も、何ヶ月もそうして、ついに僕が貯金を始めてから六年がたった今日、僕は一隻の漁船を買うことが出来た。小さな漁船だけれど、正真正銘、彼女を連れ出すためだけに買った、彼女のための船だ。
漁船が届いた日は、クリスマスイブだ。近くの港に一隻、真っ白な船を浮かべ、僕はこの船に名前をつけることにした。
彼女のための船。彼女を連れ出す船。女の子らしい名前が良いと、洋菓子の名前をいくつか考えた。○○丸とかそういう男臭い名前は却下だ。可愛らしく、希望に溢れている名前が良い。
一時間ほど悩んだ末、僕はその船にCANDYと名前をつけることにした。更に、その船を不沈艦と称し、彼女を照らす明るい未来を感じさせるように。
ありったけのピンクのペンキを買って、その塗料全てをCANDYにぶちまけた。僕の想像する、CANDYの名前らしい色を考えたら、自然とピンク色になった。船体のほとんどが疎らなピンク色になり、CANDYは幾分男臭さを消す。
高校卒業してからもずっと部屋にこもりきりだった彼女の家に、足を向けた。玄関のインターホンを鳴らし、出てきたのは彼女の母親。
「あの、彼女を、彼女に会いたいんです」
それから十分間玄関口で待たされ、出てきたのは一切の希望を捨てて来てしまったかのような、中身の無い抜け殻の彼女の姿。何処を見ているのか解らない瞳と、かさついた唇は半開きになり、髪は伸びて顔のほとんどを覆っていた。
「行こう、外へ」
彼女の首に僕のマフラーを巻き、僕のコートを着せる。僕はパーカーとジーンズなんて、冬の景色には似合わない格好になってしまったけれど、そんなことはもうどうでも良かった。彼女の手をとり、車に乗せる。港へと走らせる速度は、法定速度を35キロ超えていた。途中、庭をイルミネーションで飾った家を通り過ぎた。クリスマスプレゼント。彼女は、船のプレゼントを喜んでくれるだろうか。
港にたどり着き、僕らは船に乗り込む。エンジンを動かし、スクリューを回転させ、耳障りな音を吐き散らしながら船はゆっくりと動き出す。徐々に遠くなる港と、冷えていく体を余所に、彼女の瞳は少しずつ涙に濡れていく。
何がそんなに悲しいのだろう。何がそんなに君をおびえさせるのだろう。君の望みはもう直ぐに叶うというのに。僕が、叶えてあげようと今こうして動いていると言うのに。
沖に出た。陸地が大分とはなれた場所で、僕は船を止めた。寒さに震える体に鞭を打って、彼女の元へと歩いていく。
「どうしたの?」
彼女の瞳は涙で揺れ、歯はカタカタと音を刻んでいる。べったりと脂に塗れた髪の毛が芯まで冷えて、すこし固くなっている。
彼女は小さく口を開き、たった一言漏らした。
「死にたい……」
何故、何故なのだ。君の望みは今まさに叶おうとしているのに。どこか遠い世界へ、今君は僕と旅立とうとしていると言うのに、何故君の瞳にある闇は消え去ってくれないのだろうか。
僕が彼女の肩を抱こうとすると、彼女は強い力でそれを振り払った。よろけた僕を突き飛ばし、彼女は思い切り駆け出した。極寒の海へ、真冬の真っ黒な海に、身を投げた。
一度大きく叫び、悶えたかと思えば、二秒ほどで彼女の動きはなくなり、そのまま海の底に沈んで行ってしまった。
僕はその様子を、黙ってみていることしか出来なかった。疑問と、悔しさと、怒りに身を固められてしまい、涙が溢れる。
僕の船は、君のためのものだったのに。君の言う遠い世界とは、この世界のことじゃなくて、誰も手の届かない、場所のことだったなんて。僕は、そんな場所に君を連れて行くためにこの船を買ったんじゃない。
暫く、寒さのことも忘れるほどに僕は泣いていた。手から血が噴出すことも構わず、何度も何度も床を拳で叩いた。
雪が降り、風が強くなってきたところで、僕は自分の行った行為の愚かさに気づいた。空を見上げれば灰色の厚い雲が空を覆っている。まるでそれが、彼女の瞳のようだと感じた。
この船は、彼女のための船だ。不沈艦なんて名前をつけたけれど、この船はそもそも浮かんじゃいなかった。彼女はすでに沈むところまで沈んでいたのだ。沈んだ彼女を乗せた船が、浮かんでいると言えるのか。海底で膝を抱え、瞳を濁らせた彼女を乗せた船は、同じく海底を這うように移動するだけの船だった。
浮かんでいたのは、僕一人なのか。手を差し伸べたつもりでも、その手は海底にまでは届いていなかったのか。
冷たい、海の水に指先をつけてみる。傷みにも似た感触が、差すように指先を襲う。彼女はこの冷たい海の底に、眠ってしまった。
どこか遠い世界。見知らぬ国や、見知らぬ集落。そんなお気楽に考えていた自分を心底呪い、僕は救命胴衣を身に纏った。
この船はここに残していく。この船は僕が港に戻るための船じゃない。彼女を、彼女をどこか遠い世界へと連れて行く船だ。もうこの船は役割を失ってしまったけれど、彼女がここに眠る以上、ここにおいておくことが最善だと思った。
港が、小さく見える。僕は心臓を強く叩いてから、大きく深呼吸した。
帰ろう。彼女が望んだことだ。彼女は一人で遠い世界へ行った。僕は後を追えない。でも、船は残さなきゃならない。
歯を食いしばり、僕は、その身を冷たい海の中へと投げ入れた。
不沈艦CANDY。彼女のための船。彼女を運ぶ、唯一の船。その船から、僕は自分をはじき出した。
2009年12月08日
2009年12月06日
Lying on the bench
幸せだった。今ここにいるということ、今この時代に存在していることに感謝したいくらいに幸せだった。空は晴天で何処までも突き抜けて、限界なんか無いって思わせてくれるくらいに高くて澄み渡っていて、見ているだけで勇気を与えてくれる気がする。白雲は私を優しく包んでくれそうなほどに柔らかそうで、ほんのちょっとだけ、おいしそうにさえ感じた。土の匂いもひんやりとしていて心地良い。目を楽しませてくれる紅葉の並木は、少しだけ哀愁を感じる。舞い落ちる紅葉の葉が、一枚私の頬に落ちた。それを、そっと手で、ジュンが取ってくれる。ジュンの指先が頬をかすめ、その温かさに胸がくすぐったくなる。
紅葉の並木道に等間隔で配置された、緑色の色褪せたベンチに寝転がって、しばらく二人で脚を休めていた。人形である私は、ジュンのコートを被って顔だけ出し、頭を彼の太腿に乗せる。端から見ればちょっと妙かもしれない。けれど、私が人形とはばれないだろう。膝を抱えてベンチに眠っている女の子にしか見えない……はずだ。
「チビ人間は寒くないですか?」
こんなこと絶対に言えないけれど、ジュンのことを名前で呼べないのは、名前でジュンを呼ぶたびに、頬が熱くなっていることに気づいたからだ。
ジュンは今、私のためにコートを脱いでくれている。秋も終わりかけようというこの時期に、コートを脱いで寒くは無いのだろうか。
「別に、平気だよ。お前こそ寒くないのかよ」
寒くなんて無かった。ジュンのコートは厚手で、私にとっては大きすぎるくらいだったし、ジュンの太腿から伝わってくる体温もあった。
「大丈夫です。このコートは良いコートですね」
「のりが買ったんだよ。図書館に行くのに着て行けって」
なるほど、良いものだ。のりはジュンのことを大切に思っているから、ちゃんとジュンが風邪を引かないように、体を温めてくれるものを買ったのだろう。
ジュンの顔を見上げていると、風が吹いて、ジュンのマフラーと前髪を揺らした。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐと紅葉の木を見ていた。
大きな道路から外れ、あの妙な騒音を立てて走る鉄の箱もここを通らない。ここは静かだ。たまに吹く風の音と、ジュンの呼吸の音が聞こえてくる。
「……今日は悪かったですね、無理矢理ついてきて」
今日は、ジュンが図書館で勉強する日だった。最近ジュンは学校に行くために、復学のために勉強をしている。ジュンがどんな勉強をしているのかはあまり詳しくは知らないが、家で勉強するジュンの顔は真剣そのもので、簡単なことではないのだけはわかっていた。
ジュンが、何かを頑張っているのはうれしかった。私まで誇らしい気持ちになれた。けれど、ジュンがどこか遠くに行ってしまいそうで、どこか不安でしょうがなかったのだ。
だから、少しでもジュンと一緒にいたかった。無理言って図書館まで、大き目のバスケットに入ってついて行った。蒼星石がいた結菱というお屋敷に行った時に使った、あのバスケット。
図書館で勉強するジュンを、そのバスケットの中から、周りの人間に気づかれないよう、こっそりと覗いていた。忙しなくペンを動かすジュンの指先。参考書のページをめくる、肘から指先にかけての動き。真剣な眼差し。一部理解に時間を要する場所があれば、足がフラフラと動き、手は頭に置かれ、困ったような表情を浮かべるところまで、じっと見ていた。
あぁ、自分はとても場違いなことをしているんじゃないだろうか。懸命に前に進もうとするジュンの足元で、私はその足を引き、ジュンの一歩を妨げてしまっているんじゃないだろうか。本来自分がこの場にいなければ、ジュンはもっと集中して勉強できたんじゃないだろうか。
悪かったと思っている。けれど、帰り道、ベンチで一休みするジュンの横に座ったときから、私の胸は幸せで満たされてしまった。調子にのってジュンの脚を枕にしてしまったり、なんたる暴挙だろう。けれど、幸せで仕方が無い。うれしくて、胸の奥が騒いで、心臓が高鳴って、体温が上がって、希望が私を包んでいる。
そんな私とは対照的に、ジュンの表情はどこか陰りを持って見える。私の気のせいなのか、それとも、その表情はやはりジュンの心に何かを落としている証拠なのか。私は、今日のことを謝罪せずにはいられなかった。
「何だよ、どうしたんだ?」
「翠星石がいて、勉強できましたか?」
ジュンの視線が、真っ直ぐと私の瞳を覗き込んでくる。思わず、目を伏せて、口元までコートを引っ張り、顔を隠してしまう。
コートから、ジュンの匂いがした。ジュンの布団と同じ、ちょっと変わった匂い。
「珍しいな、お前が僕の心配なんて」
「なっ、すっ、翠星石は別にお前の心配をしているわけじゃないです!! お前の勉強を手伝うトモエの心配をしてるですよ!!」
今日はトモエは来てはいなかったが、どうやらたまに雛苺の元マスターであるトモエが、ジュンの勉強を手伝っているらしい。ジュンにとってそれが良いことなら構わないが、どこかちょっと面白くない。
というか、まただ。つい恥ずかしくなって強がって、思っていることとは逆のことを言ってしまう。頭と口が別に存在しているみたいに、とっさに口が言葉を発してしまう。自己防衛なのか、私は妙な癖をつけてしまったと後悔することもある。
「ふぅん。いや、大丈夫だよ。お前大人しかったしな」
「それじゃ、いつも煩いみたいじゃねーですか」
「あれ、気づいてなかったのか?」
む、気づいていないことは無いのだが、改めて言われるとは思っていなかった。確かに、毎日チビ苺を追い掛け回したりして叫んでいる。
「邪魔になんてなってないよ。……逆に、やる気になったよ」
「……へ?」
思っても見なかった答えが返ってきたものだから、間の抜けた声が出てしまった。いや、ジュンなら私に気を使って否定はしてくれたかもしれない。けれど、ジュンはまっすぐと私を見て言ってくれた。
「やる気、ですか?」
「うん。なんかさ、普段一人で勉強してたけど、お前が見てたから、気が抜けないなって思って」
そっと、ジュンの手が私の頭に伸びてくる。思わず身を固めてしまう。
手が、私の頭を撫でる。優しく、髪に指を通す。触れた場所から溶けていくみたいに、悔しいくらい心地良い。
それ以上に言葉は無く、暫く私は身を固めたままで、ジュンはただ手を私の頭の上で滑らせるだけだった。
落ち葉がいくつも落ちていく。雲が流れる。時間が動いている。私が意思を持ってから、人間には想像のつかないほど長い時間を生きてきた私が、この短い、たった数分の時が気が遠くなるほど長く感じる。
それが良い。幸せな時間は、長いほど良い。呼吸を忘れてしまうくらいに、心音を止めてしまうほどに、意識がどこかへ流されて行ってしまうくらいに、幸せな時間は長く感じる程に良い。
「……そろそろ帰るか」
それでも、終わりというものはあるのだ。あれほど心地よかった晴天は、空に微かな茜を映していた。大きな石の建物達の向こうで、そっと伸びる茜と青の中間、白い空が浮かんでいる。
「……そうですね」
被っていたコートをジュンに手渡すと、私は再びバスケットの中に入り込む。ジュンはコートを羽織ると、バスケットを手に持った。
「ジュン……」
……ジュン。
「何だ?」
「明日も、……ついて行って良いですか?」
幸せな時間が、もっと続けば良い。もっと側にいたい人がいる。長い時間を生きて、大切な人が増えていく。個性豊かな姉妹たち、大好きな蒼星石、大好きなお父様、そして……。
「良いよ。全然構わない」
茜色の空が徐々に広がっていく。幸せな時間が、もっと長く続けば良いのに。叶わない願いなんて、無ければ良いのに。
あんまりにも嬉しくて、あんまりにも寂しくて、私はバスケットの蓋を閉め、中で少しだけ、涙を流した。
「翠星石? 寒いのか?」
「……なんでもないです」
大好きな人たちが、みんな幸せでいられたら、どれほど良いだろうか。そうしたら、自分も幸せでいられるのに。
「ジュン……」
……ジュン……ジュン。
「ん?」
涙を拭い、私は再びバスケットから顔を出し、満面の笑みで、ジュンを見てやった。ジュンは少し戸惑い、照れたように顔を伏せた。
「頑張るですよ」
「お、おう……」
長く続かない幸せの時間。だから、今の幸せを精一杯に感じてやる。落ちる紅葉を捕まえて、茜色が強まってきた空に向かって、紅葉を投げた。紅葉は風に遊ばれて、どこか遠くへ飛んで行く。
紅葉の並木道に等間隔で配置された、緑色の色褪せたベンチに寝転がって、しばらく二人で脚を休めていた。人形である私は、ジュンのコートを被って顔だけ出し、頭を彼の太腿に乗せる。端から見ればちょっと妙かもしれない。けれど、私が人形とはばれないだろう。膝を抱えてベンチに眠っている女の子にしか見えない……はずだ。
「チビ人間は寒くないですか?」
こんなこと絶対に言えないけれど、ジュンのことを名前で呼べないのは、名前でジュンを呼ぶたびに、頬が熱くなっていることに気づいたからだ。
ジュンは今、私のためにコートを脱いでくれている。秋も終わりかけようというこの時期に、コートを脱いで寒くは無いのだろうか。
「別に、平気だよ。お前こそ寒くないのかよ」
寒くなんて無かった。ジュンのコートは厚手で、私にとっては大きすぎるくらいだったし、ジュンの太腿から伝わってくる体温もあった。
「大丈夫です。このコートは良いコートですね」
「のりが買ったんだよ。図書館に行くのに着て行けって」
なるほど、良いものだ。のりはジュンのことを大切に思っているから、ちゃんとジュンが風邪を引かないように、体を温めてくれるものを買ったのだろう。
ジュンの顔を見上げていると、風が吹いて、ジュンのマフラーと前髪を揺らした。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐと紅葉の木を見ていた。
大きな道路から外れ、あの妙な騒音を立てて走る鉄の箱もここを通らない。ここは静かだ。たまに吹く風の音と、ジュンの呼吸の音が聞こえてくる。
「……今日は悪かったですね、無理矢理ついてきて」
今日は、ジュンが図書館で勉強する日だった。最近ジュンは学校に行くために、復学のために勉強をしている。ジュンがどんな勉強をしているのかはあまり詳しくは知らないが、家で勉強するジュンの顔は真剣そのもので、簡単なことではないのだけはわかっていた。
ジュンが、何かを頑張っているのはうれしかった。私まで誇らしい気持ちになれた。けれど、ジュンがどこか遠くに行ってしまいそうで、どこか不安でしょうがなかったのだ。
だから、少しでもジュンと一緒にいたかった。無理言って図書館まで、大き目のバスケットに入ってついて行った。蒼星石がいた結菱というお屋敷に行った時に使った、あのバスケット。
図書館で勉強するジュンを、そのバスケットの中から、周りの人間に気づかれないよう、こっそりと覗いていた。忙しなくペンを動かすジュンの指先。参考書のページをめくる、肘から指先にかけての動き。真剣な眼差し。一部理解に時間を要する場所があれば、足がフラフラと動き、手は頭に置かれ、困ったような表情を浮かべるところまで、じっと見ていた。
あぁ、自分はとても場違いなことをしているんじゃないだろうか。懸命に前に進もうとするジュンの足元で、私はその足を引き、ジュンの一歩を妨げてしまっているんじゃないだろうか。本来自分がこの場にいなければ、ジュンはもっと集中して勉強できたんじゃないだろうか。
悪かったと思っている。けれど、帰り道、ベンチで一休みするジュンの横に座ったときから、私の胸は幸せで満たされてしまった。調子にのってジュンの脚を枕にしてしまったり、なんたる暴挙だろう。けれど、幸せで仕方が無い。うれしくて、胸の奥が騒いで、心臓が高鳴って、体温が上がって、希望が私を包んでいる。
そんな私とは対照的に、ジュンの表情はどこか陰りを持って見える。私の気のせいなのか、それとも、その表情はやはりジュンの心に何かを落としている証拠なのか。私は、今日のことを謝罪せずにはいられなかった。
「何だよ、どうしたんだ?」
「翠星石がいて、勉強できましたか?」
ジュンの視線が、真っ直ぐと私の瞳を覗き込んでくる。思わず、目を伏せて、口元までコートを引っ張り、顔を隠してしまう。
コートから、ジュンの匂いがした。ジュンの布団と同じ、ちょっと変わった匂い。
「珍しいな、お前が僕の心配なんて」
「なっ、すっ、翠星石は別にお前の心配をしているわけじゃないです!! お前の勉強を手伝うトモエの心配をしてるですよ!!」
今日はトモエは来てはいなかったが、どうやらたまに雛苺の元マスターであるトモエが、ジュンの勉強を手伝っているらしい。ジュンにとってそれが良いことなら構わないが、どこかちょっと面白くない。
というか、まただ。つい恥ずかしくなって強がって、思っていることとは逆のことを言ってしまう。頭と口が別に存在しているみたいに、とっさに口が言葉を発してしまう。自己防衛なのか、私は妙な癖をつけてしまったと後悔することもある。
「ふぅん。いや、大丈夫だよ。お前大人しかったしな」
「それじゃ、いつも煩いみたいじゃねーですか」
「あれ、気づいてなかったのか?」
む、気づいていないことは無いのだが、改めて言われるとは思っていなかった。確かに、毎日チビ苺を追い掛け回したりして叫んでいる。
「邪魔になんてなってないよ。……逆に、やる気になったよ」
「……へ?」
思っても見なかった答えが返ってきたものだから、間の抜けた声が出てしまった。いや、ジュンなら私に気を使って否定はしてくれたかもしれない。けれど、ジュンはまっすぐと私を見て言ってくれた。
「やる気、ですか?」
「うん。なんかさ、普段一人で勉強してたけど、お前が見てたから、気が抜けないなって思って」
そっと、ジュンの手が私の頭に伸びてくる。思わず身を固めてしまう。
手が、私の頭を撫でる。優しく、髪に指を通す。触れた場所から溶けていくみたいに、悔しいくらい心地良い。
それ以上に言葉は無く、暫く私は身を固めたままで、ジュンはただ手を私の頭の上で滑らせるだけだった。
落ち葉がいくつも落ちていく。雲が流れる。時間が動いている。私が意思を持ってから、人間には想像のつかないほど長い時間を生きてきた私が、この短い、たった数分の時が気が遠くなるほど長く感じる。
それが良い。幸せな時間は、長いほど良い。呼吸を忘れてしまうくらいに、心音を止めてしまうほどに、意識がどこかへ流されて行ってしまうくらいに、幸せな時間は長く感じる程に良い。
「……そろそろ帰るか」
それでも、終わりというものはあるのだ。あれほど心地よかった晴天は、空に微かな茜を映していた。大きな石の建物達の向こうで、そっと伸びる茜と青の中間、白い空が浮かんでいる。
「……そうですね」
被っていたコートをジュンに手渡すと、私は再びバスケットの中に入り込む。ジュンはコートを羽織ると、バスケットを手に持った。
「ジュン……」
……ジュン。
「何だ?」
「明日も、……ついて行って良いですか?」
幸せな時間が、もっと続けば良い。もっと側にいたい人がいる。長い時間を生きて、大切な人が増えていく。個性豊かな姉妹たち、大好きな蒼星石、大好きなお父様、そして……。
「良いよ。全然構わない」
茜色の空が徐々に広がっていく。幸せな時間が、もっと長く続けば良いのに。叶わない願いなんて、無ければ良いのに。
あんまりにも嬉しくて、あんまりにも寂しくて、私はバスケットの蓋を閉め、中で少しだけ、涙を流した。
「翠星石? 寒いのか?」
「……なんでもないです」
大好きな人たちが、みんな幸せでいられたら、どれほど良いだろうか。そうしたら、自分も幸せでいられるのに。
「ジュン……」
……ジュン……ジュン。
「ん?」
涙を拭い、私は再びバスケットから顔を出し、満面の笑みで、ジュンを見てやった。ジュンは少し戸惑い、照れたように顔を伏せた。
「頑張るですよ」
「お、おう……」
長く続かない幸せの時間。だから、今の幸せを精一杯に感じてやる。落ちる紅葉を捕まえて、茜色が強まってきた空に向かって、紅葉を投げた。紅葉は風に遊ばれて、どこか遠くへ飛んで行く。
2009年12月03日
ロイド×プレセア
私。私とは、どういう存在なのだろう。私は自分のことを、いまいち人間であると明確に認識することができていない。この地上に生きるすべての生命とは、まったく異なる時間を渡り歩いてきた。誰よりも遅く、ゆっくりと、深い泥の海に足をとられるかのような重たい足取り。エクスフィアの影響。今までの私をすべて、泥の海の底に落としてきてしまった。もう戻ることはできないこの広い海で、私は未だ道に迷っている。……彼の作ってくれた、要の紋のお陰で、今は足取りは軽い。けれど、私はまだ泥の海から抜け出せていない。
「そろそろハイマに着くな。今日はそこで一晩過ごそう」
まっすぐ続く草原で夕焼けに燃やされるように揺らめき、炎のように踊っている草の中で、彼が振り向いて笑った。彼は、よく笑っている。いつも、どこでも、誰にでもその太陽のような燃える瞳と、明るい笑顔で照らしてくれる。その笑顔を見ていると、心の奥底、泥の中で冷えていた体が芯から温まっていくようで、心地が良い。
風が吹く。草原が揺れる。ざぁっと肌の表面が緊張したのだろうか、ほんの少し震えた。彼の瞳を覗き込むと、それはおきる。心地よい。この感覚が気持ちよく、彼の傍にいたいと思えるひとつの理由。
「ええ、賛成です」
「レアバードが整備中じゃなかったらもっと早くハイマについたのに、ほんと、ごめんプレセア!!」
それは、彼の所為じゃない。ほんの少しレネゲードとの予定のすり合わせができなかっただけ。本来長期間で貸してもらう予定だったレアバードが、こちらとの打ち合わせ不足により、私たちの旅の予定と彼らのレアバードの調整予定日が合わなかっただけ。彼だけに落ち度のある問題ではない。
「いいえ、ロイドさんの責任ではありません」
それに、レアバードで旅をしているよりも、二人でこうして長い道のりを歩いているほうが、私は好きだ。どこまでも続く道のり。時には手を取り合い、時には目を見つめあい、時には言葉を絡ませ、またある時には身を寄せる。そんな二人旅が好きだ。
「それに、レアバードがないほうが、こうしてゆっくりと、ロイドさんと旅ができます」
彼は私の言葉に目を丸くした。彼の大きな瞳が夕焼け色の光を移し、揺らめいている。
「どう、しました?」
もしかして、そう思っているのは私だけだったのだろうか。彼の瞳を見てから、しまったと感じた。彼にとってこの旅は、彼の父親との大切な約束。長い時間をかけて光の見えないような暗闇を歩くような、果てしなく長い旅。けれど、彼はこの旅を自分の使命のように感じているはずだ。それを私は、ゆっくりと二人で過ごしたいなどと言ってしまったのだから。
「あ、……その、すみません……」
思わず、目を伏せてしまう。けれど、彼の口から漏れてきたのは、小さな笑い声だった。
「おどろいたな……」
顔を上げると、彼は笑っている。夕日が沈みかけ、草原が闇に包まれようとしているにもかかわらず、彼の笑顔は相変わらず明るい。
「こんなこと、本当は言っちゃだめなのかもしれないけれどさ……」
夕日が沈んだ。空には星が現れ、きらきらと小さくもまばゆく輝き、私たちを照らしてくれる。
「俺も、同じこと考えてた」
その言葉に、胸が高鳴る。
「今の旅が大切なのは解っている。けれどさ、プレセアとこうしてゆっくりと旅をするのが、楽しくてしょうがないんだ」
彼は、本当に私を照らしてくれる。太陽にも、星たちにも負けないくらいの暖かな光で。心と、体を染め上げてくれる。だから、私は彼の傍にいたい。彼の隣を歩き、行動を共にしたい。それが、どれほど幸福な感覚であるか、私は知ってしまったから。
「ロイドさん……」
「レアバード、もっと後でも良いか」
やっぱり、彼の笑顔はまぶしい。抑えられなくなりそうな自分がいる。いつから芽生え始めていたのかわからないこの感情。確かめたい。それなのに、私には恐れていることがある。私は彼とは違う時間を歩いてきた。今後何かの弊害が起きてもおかしくはない。肉体的には12歳なのに、本来の年齢は28歳。彼よりも一回りも年齢を上回っている。そんな私が、彼にこの思いを伝えてよいのだろうか。彼はそのことに対してどう思うのだろうか。この本来ある年齢差が、私にとって恐れる物なのだ。
ああ、それなのに、私はいつからこんなにも我侭で暴虐な人間になってしまったのだろうか。彼に思いを伝えたくて泣き出してしまいそうな自分がいる。いや、感情は泥の海の中においてきた。それならばいっそ伝えてしまったほうが楽なのではないのだろうか。
泥は私の足に絡み付いて離れない。深く、深くなっていく。私が欲を持つたびに泥の海は私を飲み込もうとする。……ああ、そうか。この泥の海、いつの間にか私自身に成り代わっている。私を抑えようとする私が、いつの間にか泥の海に変わって私の足に絡み付いているのだ。
……私は私。今ここにいる私。本来の私は感情を持っていた。本来の私は欲望をたくさん持っていた。今の私はどうだろう。本来の私とはどうだったか。関係ない。伝えたい。これが、今の欲望だ。
「ロイドさん……。伝えたいことがあります」
まっすぐに、いつも彼が私に向き合ってくれるように。
「どうしたんだ?」
「わたし、……私は……」
いつ以来だろう。……いや、私が今の私を形成するまでに、こんな感覚は味わったことがない。けれど、遠く深いどこかで、私は似たような感覚を味わったことがある。けれど、今は関係ない。今は、目の前の彼に、彼に向き合うだけ。自分の思いを、まっすぐに彼に向けるだけ。
「私は、ロイドさんのことが好きです」
まっすぐに、嘘偽りもなく、飾ることもせず、彼を見習って。
「ああ、俺もプレセアは好きだよ」
そうじゃない。
「いえ、私の『好き』は、ロイドさんの『好き』とは違います」
再び、彼が目を丸くした。驚いている。当然だ。私は今までそうした感情を見せなかった。そうした想いを伝えたことがない。私は今、これほど暴虐になったことはないのだから。
「私は、ロイドさんに、その、特別な想いとして『好き』なんです」
視界がかすんでくる。これは? 私は、泣いているのだろうか? わからない。『泣く』なんて、もう二度と無いのだと思っていたから。もしかしたら、今私は泣いているのではなく、眼球疲労により視界がぼやけているだけかもしれない。……あぁ、そう思っても、私の目からは、熱い液体が流れてくる。ただそれだけ。ただそれだけなのに、私の頭の中は破裂してしまったかのように考えがまとまらない。収拾がつかない。
「……今日は驚いてばかりだ」
彼の両手が私の肩をつかんだ。優しく、それでいて力強く、私が倒れてしまわないように。
「俺も、プレセアが『好き』だ。コレットやジーニアス、リフィル先生みたいに。でも、それとは違うんだ」
それとは『違う』?
「プレセア、俺はプレセアがいないと駄目だ。プレセアがいてくれるから、この旅をしていられる。この旅を続けていられる」
「それは、どういうことですか?」
視界がかすんでいてもわかる。彼は優しく微笑んでくれている。
「好きなんだ。プレセアのこと。一人の、女の子として」
真っ白な空間に、私は立っていた。泥の海もない。私の足に絡み付いていた私もいない。ここはどこなのだろう。
「けれど、私は本当はロイドさんよりも……」
「プレセア」
ゆっくりと太陽が昇っている。この真っ白い空間が、光に照らされ明るくなっていく。暖かく、心地よくなってくる。
「この感情(気持ち)は、何があったって消えないんだ」
その言葉に、私がどれだけ救われたか。あなたは、意図せず言ったのだろうけれど。真っ白な空間、太陽からそっと手が伸びてきた。よく知った手、彼の手だ。優しく微笑んでくれている彼の手を、そっと握る。彼は私を、その空間から引きずり出してくれる。泥の海ももう私の前にはない。あるのは、太陽に照らされた明るい草原。暖かな日差しと、心地よい風が吹く場所。彼の手を引き、思わず彼に抱きついてしまった。ずっとこうしていたい。ずっと、彼と同じ道を歩いていきたい。
「ロイドさん」
暖かい、彼の太陽があれば、私はもう迷わない。戻る必要なんてなかった。
「大好きです」
彼がいるから。
「そろそろハイマに着くな。今日はそこで一晩過ごそう」
まっすぐ続く草原で夕焼けに燃やされるように揺らめき、炎のように踊っている草の中で、彼が振り向いて笑った。彼は、よく笑っている。いつも、どこでも、誰にでもその太陽のような燃える瞳と、明るい笑顔で照らしてくれる。その笑顔を見ていると、心の奥底、泥の中で冷えていた体が芯から温まっていくようで、心地が良い。
風が吹く。草原が揺れる。ざぁっと肌の表面が緊張したのだろうか、ほんの少し震えた。彼の瞳を覗き込むと、それはおきる。心地よい。この感覚が気持ちよく、彼の傍にいたいと思えるひとつの理由。
「ええ、賛成です」
「レアバードが整備中じゃなかったらもっと早くハイマについたのに、ほんと、ごめんプレセア!!」
それは、彼の所為じゃない。ほんの少しレネゲードとの予定のすり合わせができなかっただけ。本来長期間で貸してもらう予定だったレアバードが、こちらとの打ち合わせ不足により、私たちの旅の予定と彼らのレアバードの調整予定日が合わなかっただけ。彼だけに落ち度のある問題ではない。
「いいえ、ロイドさんの責任ではありません」
それに、レアバードで旅をしているよりも、二人でこうして長い道のりを歩いているほうが、私は好きだ。どこまでも続く道のり。時には手を取り合い、時には目を見つめあい、時には言葉を絡ませ、またある時には身を寄せる。そんな二人旅が好きだ。
「それに、レアバードがないほうが、こうしてゆっくりと、ロイドさんと旅ができます」
彼は私の言葉に目を丸くした。彼の大きな瞳が夕焼け色の光を移し、揺らめいている。
「どう、しました?」
もしかして、そう思っているのは私だけだったのだろうか。彼の瞳を見てから、しまったと感じた。彼にとってこの旅は、彼の父親との大切な約束。長い時間をかけて光の見えないような暗闇を歩くような、果てしなく長い旅。けれど、彼はこの旅を自分の使命のように感じているはずだ。それを私は、ゆっくりと二人で過ごしたいなどと言ってしまったのだから。
「あ、……その、すみません……」
思わず、目を伏せてしまう。けれど、彼の口から漏れてきたのは、小さな笑い声だった。
「おどろいたな……」
顔を上げると、彼は笑っている。夕日が沈みかけ、草原が闇に包まれようとしているにもかかわらず、彼の笑顔は相変わらず明るい。
「こんなこと、本当は言っちゃだめなのかもしれないけれどさ……」
夕日が沈んだ。空には星が現れ、きらきらと小さくもまばゆく輝き、私たちを照らしてくれる。
「俺も、同じこと考えてた」
その言葉に、胸が高鳴る。
「今の旅が大切なのは解っている。けれどさ、プレセアとこうしてゆっくりと旅をするのが、楽しくてしょうがないんだ」
彼は、本当に私を照らしてくれる。太陽にも、星たちにも負けないくらいの暖かな光で。心と、体を染め上げてくれる。だから、私は彼の傍にいたい。彼の隣を歩き、行動を共にしたい。それが、どれほど幸福な感覚であるか、私は知ってしまったから。
「ロイドさん……」
「レアバード、もっと後でも良いか」
やっぱり、彼の笑顔はまぶしい。抑えられなくなりそうな自分がいる。いつから芽生え始めていたのかわからないこの感情。確かめたい。それなのに、私には恐れていることがある。私は彼とは違う時間を歩いてきた。今後何かの弊害が起きてもおかしくはない。肉体的には12歳なのに、本来の年齢は28歳。彼よりも一回りも年齢を上回っている。そんな私が、彼にこの思いを伝えてよいのだろうか。彼はそのことに対してどう思うのだろうか。この本来ある年齢差が、私にとって恐れる物なのだ。
ああ、それなのに、私はいつからこんなにも我侭で暴虐な人間になってしまったのだろうか。彼に思いを伝えたくて泣き出してしまいそうな自分がいる。いや、感情は泥の海の中においてきた。それならばいっそ伝えてしまったほうが楽なのではないのだろうか。
泥は私の足に絡み付いて離れない。深く、深くなっていく。私が欲を持つたびに泥の海は私を飲み込もうとする。……ああ、そうか。この泥の海、いつの間にか私自身に成り代わっている。私を抑えようとする私が、いつの間にか泥の海に変わって私の足に絡み付いているのだ。
……私は私。今ここにいる私。本来の私は感情を持っていた。本来の私は欲望をたくさん持っていた。今の私はどうだろう。本来の私とはどうだったか。関係ない。伝えたい。これが、今の欲望だ。
「ロイドさん……。伝えたいことがあります」
まっすぐに、いつも彼が私に向き合ってくれるように。
「どうしたんだ?」
「わたし、……私は……」
いつ以来だろう。……いや、私が今の私を形成するまでに、こんな感覚は味わったことがない。けれど、遠く深いどこかで、私は似たような感覚を味わったことがある。けれど、今は関係ない。今は、目の前の彼に、彼に向き合うだけ。自分の思いを、まっすぐに彼に向けるだけ。
「私は、ロイドさんのことが好きです」
まっすぐに、嘘偽りもなく、飾ることもせず、彼を見習って。
「ああ、俺もプレセアは好きだよ」
そうじゃない。
「いえ、私の『好き』は、ロイドさんの『好き』とは違います」
再び、彼が目を丸くした。驚いている。当然だ。私は今までそうした感情を見せなかった。そうした想いを伝えたことがない。私は今、これほど暴虐になったことはないのだから。
「私は、ロイドさんに、その、特別な想いとして『好き』なんです」
視界がかすんでくる。これは? 私は、泣いているのだろうか? わからない。『泣く』なんて、もう二度と無いのだと思っていたから。もしかしたら、今私は泣いているのではなく、眼球疲労により視界がぼやけているだけかもしれない。……あぁ、そう思っても、私の目からは、熱い液体が流れてくる。ただそれだけ。ただそれだけなのに、私の頭の中は破裂してしまったかのように考えがまとまらない。収拾がつかない。
「……今日は驚いてばかりだ」
彼の両手が私の肩をつかんだ。優しく、それでいて力強く、私が倒れてしまわないように。
「俺も、プレセアが『好き』だ。コレットやジーニアス、リフィル先生みたいに。でも、それとは違うんだ」
それとは『違う』?
「プレセア、俺はプレセアがいないと駄目だ。プレセアがいてくれるから、この旅をしていられる。この旅を続けていられる」
「それは、どういうことですか?」
視界がかすんでいてもわかる。彼は優しく微笑んでくれている。
「好きなんだ。プレセアのこと。一人の、女の子として」
真っ白な空間に、私は立っていた。泥の海もない。私の足に絡み付いていた私もいない。ここはどこなのだろう。
「けれど、私は本当はロイドさんよりも……」
「プレセア」
ゆっくりと太陽が昇っている。この真っ白い空間が、光に照らされ明るくなっていく。暖かく、心地よくなってくる。
「この感情(気持ち)は、何があったって消えないんだ」
その言葉に、私がどれだけ救われたか。あなたは、意図せず言ったのだろうけれど。真っ白な空間、太陽からそっと手が伸びてきた。よく知った手、彼の手だ。優しく微笑んでくれている彼の手を、そっと握る。彼は私を、その空間から引きずり出してくれる。泥の海ももう私の前にはない。あるのは、太陽に照らされた明るい草原。暖かな日差しと、心地よい風が吹く場所。彼の手を引き、思わず彼に抱きついてしまった。ずっとこうしていたい。ずっと、彼と同じ道を歩いていきたい。
「ロイドさん」
暖かい、彼の太陽があれば、私はもう迷わない。戻る必要なんてなかった。
「大好きです」
彼がいるから。


